官展と墨仙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 15:25 UTC 版)
1906年(明治39年)文展開設の報を聞くと画壇復活を決意し、教職を辞し上京。翌年9月国画玉成会創立総会で評議員に選出される。この頃、当時渡米中の兄・雪湖の代わりにヘンリイ・パイク・ブイに日本画を指導する。1919年(大正8年)山内多門、飛田周山、石井林響、勝田蕉琴、町田曲江、野田九浦、池田輝方、水上泰生、服部春陽ら10名と如水会を結成(1922年(大正11年)解散)。この頃の墨仙は、道釈人物や高士、先哲などを好んで描くが、派手な大作が溢れる文展では墨仙の淡彩の作品は目立ず、官展と距離を置くようになる。しかし、 1925年(大正14年)これまで賞を受けたことがないにもかかわらず、帝国美術院委員に推薦される。 晩年の7年間はほとんど病床にあったが、亡くなるまでその創作意欲が衰えることはなかった。亡くなる3ヶ月前に、「山鹿素行先生」で日本画家としては初の帝国美術院賞を受けるが、1943年(昭和18年)7月9日胃がんのため死去。77歳。戒名は塡義院廣墨仙居士。墓は、父と同じ福井市の浄土宗清圓寺。
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