宇都宮城の攻防戦の後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:23 UTC 版)
「宇都宮城の戦い」の記事における「宇都宮城の攻防戦の後」の解説
宇都宮城攻城戦の終結後、新政府軍と旧幕府軍間の攻防の舞台は日光に移る。旧幕府軍は徳川将軍家の聖地である日光廟を背景に日光山に陣を張る。一方の新政府軍は宇都宮城を会津戦線の拠点として確保、宇都宮藩もその一部隊として下野国内から会津方面まで転戦することとなる。 その後、新政府軍は旧幕府軍と今市付近で交戦、日光山での戦いを前に前哨戦となる。しかし、日光山僧が新政府軍に戦役回避の嘆願を申し入れて来たため、司令官板垣退助は旧幕府軍に使者を送り日光山を下るよう説得。折から旧幕府軍では負傷者も増え兵の疲労も増していること、また物資も不足してきたところであったため一旦日光山を下りて会津に向かい、会津の地で再度決戦を行うことを決定、日光は戦火を免れた。このことを讃え、神橋のたもとには現在も大きな板垣退助像が立てられている。 破壊された二荒山神社はその後明治新政府によって復興され、社格も一時は外された国幣社に復帰された。 また、宇都宮城下の戦いの戦没者を弔うために、旧幕府軍側、新政府側ともに市内の寺院を中心に戦没者墓碑や慰霊碑が建てられ供養された。当時24の寺院に碑があったと言われており、現在も栃木県護国神社(忠恕と宇都宮藩士97名)や六道付近の報恩寺、一向寺、清住町の桂林寺などで祀られている。
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