学問体系の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 23:28 UTC 版)
「インド・ヨーロッパ語族」の記事における「学問体系の確立」の解説
「青年文法学派」も参照 ゲオルク・クルツィウスは分化していた言語学と文献学の協調を要請した。クルティウスの弟子の世代にあたり、問題意識を引き継いだライプツィヒ大学に拠点を置く一連の学者らは1870年代以降に音韻論の実証的な研究を発表し、青年文法学派と呼ばれた。青年文法学派の実証を重んじる主張は「音法則に例外なし」に代表され、代表者のカール・ブルークマンの説がクルツィウスに受け入れられなかっただけでなく、ヨハネス・シュミットやアダルバート・ベッツェンベルガー(英語版)、ヘルマン・コーリッツ(英語版)らの批判を受け議論は紛糾した。 ライプツィヒ大学に留学しており青年文法学派と交流があったフェルディナン・ド・ソシュールが1878年に提出した論文『印欧語族における母音の原始的体系に関する覚え書き』は、印欧語の母音組織と母音交替を統一的に説明する画期的な学説であった。母音交替を説明するために、音声的に正体不明の「ソナント的機能音」を建てる理論的仮説だったが、実証を重んじる青年文法学派の奉じる原理と衝突し受け入れられなかった。 結果的に1870年代前後を通じて、ジョーンズの指摘を受けた研究はドイツロマン主義の隆盛と相まってドイツで盛んとなった。
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