字「高畑」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 16:26 UTC 版)
従来、字名「城ヶ前」がある吹田市立吹田第三小学校付近にも居城があったと思われてきた。 しかし明治時代の測量地図には、同地域は湿田となっており城郭に不向きな土地で『わが町すいた』では「城館跡である可能性は薄い」としている。 字名「城ヶ前」の北側に「高畑」がある。ここはほぼ方形で乾田となっていた。乾田は人工によって造成された可能性がある。 「高畑」の西側には字名「二ッ池」があり、南北に細長い池があったが、この池も人工的に造られ、掘り上げられた土が高畑の造成に使用されたと思われている。 また西南には字名「船橋」があり、舟橋は単なる灌漑施設ではなく、舟運に利用したと思われ、その為には水路の幅も広く、深く掘削した土砂は高畑の造成に役立て、二ッ池と繋がって水堀の役割をしていた可能性も指摘している。 東側には字名「庄ヶ前」がある。『わが町すいた』によると、「じょうがまえ」は歴史的仮名遣いで漢字にすると「城前」へ転化したと推察している。 もともと吹田城の居城は、寝殿造のような古い建物で、屋敷の東から西に向けて門があり、東側の「庄ヶ前」(城前)となった。しかし後に武家の居城となり南側に虎口を造り、門も東側から南側に移され、字名と伝わっている「城ヶ前」となったとしている。 更に『わが町すいた』によると亀岡街道はこの居城の東側と西側を通っている。 通常まっすぐ伸びる街道がわざわざ屈曲しているのは、ここに居城があり館の出入り口と関係があったためとしている。 明治時代の初期に描かれたと思われる『東摂城址図誌』の吹田城は「この辺、字城ヶ前」とあるので、この居城の事ではないかと思われている。 吹田昭和郵便局/字「高畑」の中心部 昭和町の住宅地/区画整理されており、当時の区割りは残っていない 二ッ池推定地/現在は完全に埋め立てられている 東摂城址図誌吹田城絵図/大阪府立中之島図書館蔵 城ではないが、吹田市高浜町と南高浜町周辺には、堀と土塁を巡らし大戸のついた門が2ヶ所設けていた環濠集落があった。 民家は60数戸で、戦国時代、他地域からの略奪に備える惣で村全体を防備を固めていた。
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