夫の死と父との絶縁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 01:55 UTC 版)
「エッダ・ムッソリーニ」の記事における「夫の死と父との絶縁」の解説
1月9日、ヴェローナの裁判でチャーノ等に死刑が求刑された。午後、エッダは日記を腹部にくくりつけて、妊娠した農婦に変装した上でスイスに亡命した。出発前、ヒトラー、ムッソリーニ、イタリアに駐在する南方軍集団司令官アルベルト・ケッセルリンクにあてて手紙を書き、連絡員の女性に手渡した。この手紙で重ねてチャーノの解放を求め、解放が成されなかった場合に日記を公表するという内容であった。父ムッソリーニあての手紙では、父親を「ドゥーチェ」と記し、父とは呼ばなかった。連絡員はエッダが逃亡する時間を稼ぐため、10日になって手紙をドイツ側に手渡した。しかしこの朝にヴェローナ裁判では判決が下り、チャーノにも死刑判決が下った。死刑判決を受けた者達は特赦願いを提出したが、ファシスト党書記官長アレッサンドロ・パヴォリーニ(en)が握りつぶした。1月11日、エッダの手紙を受け取ったムッソリーニは早朝にイタリアの親衛隊及び警察高級指導者カール・ヴォルフに介入するべきか相談したが、ヴォルフは不介入を勧告した。このためムッソリーニは動けず、午前9時20分になってチャーノ等は処刑された。後に特赦願いが出されていたことを知ったムッソリーニは、「処刑前に渡されていたら受理しただろう」と述べている。 やがてムッソリーニはエッダがスイスに亡命したことを知り、娘と和解して日記を取り戻すため、密使としてエッダの幼友達であるパンチノ神父をスイスに送った。しかしパンチノ神父と面会したエッダは「ドゥーチェが選ぶ道はただ二つ、地の果てに逃げるか、自殺するかだ」と述べて和解を拒否した。パンチノ神父の行動を察知したドイツは、日記の奪回をパンチノ神父に依頼した。しかしパンチノはエッダに日記が狙われていると告げ、スイスの銀行に預けさせた。その後、エッダはアメリカの新聞「シカゴ・デイリー・ニュース」と日記の掲載契約を結んだ。
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