夫の死と福島氏再興運動の悲劇
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「満天姫」の記事における「夫の死と福島氏再興運動の悲劇」の解説
寛永8年(1631年)に信枚が没し、信義が3代藩主となった。以後、満天姫は葉縦院と号するようになる。 一方で直秀が、自らは福島正則の孫であるとして、この頃改易され3千石の旗本にまで身分を落としていた福島家の大名家再興を考えるようになり、しきりに活動するようになる。葉縦院は、直秀の活動は幕府の心証を害し、津軽家に災いとなると考え、直秀を諫めた。しかし直秀は一向に考えを改めることなく、江戸へ上って幕府に対し、自身を当主とした福島家再興を訴えると言い出した。寛永13年(1636年)、江戸に出発するため葉縦院の居所へ挨拶に訪れた直秀は、葉縦院に勧められるまま杯を空けると、急に苦しみだして死んでしまう。この事件は毒殺説がある。 寛永15年(1638年)、葉縦院は弘前で生涯を終えた。長勝寺(青森県弘前市)に霊屋(国の重要文化財)がある。
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