大躍進政策の終焉と文化大革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 05:27 UTC 版)
「中華人民共和国大飢饉」の記事における「大躍進政策の終焉と文化大革命」の解説
1961年4月と5月、当時の国家主席であった劉少奇は、湖南省の村で44日間の現地調査を行った後、飢饉の原因は30%の自然災害と70%の人為的ミスであると結論付けた。1962年1月と2月に「七千人大会」が召集された。ここで劉は正式に結論を発表し、毛は生涯で唯一とされる自己批判を余儀なくされ、大躍進政策は共産党によって「終わった」と宣言された。 大躍進政策の失敗と飢饉により毛は共産党と政府内の積極的な意思決定から撤退し、劉少奇と鄧小平に将来の様々な責任を委ねた。しかし、毛と劉(そして鄧)の間の意見の相違は次第に大きくなる。劉は三自一包(中国語版)改革を推進して立て直しを図り、鄧は「黒い猫でも白い猫でも鼠を捕るのが良い猫だ(中国語: 不管黑猫白猫,捉到老鼠就是好猫)」と唱えた。一方で毛は、1963年に社会主義教育運動を、そして1966年に文化大革命を開始した。劉は自然災害を飢饉の原因の30%だけとした過去の発言がたたり、裏切り者であり敵の工作員であるとその間非難された。劉は殴打されたうえ、糖尿病と肺炎の薬の処方も拒否され、1969年に悲惨な最期を遂げた。飢饉を終わらせるために尽力した者の多くが劉と同じ運命を辿った。一方、鄧は文化大革命中は「第二の走資派」と非難され、2度粛清されたものの、死を免れた。
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