大臣そして首相へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 14:10 UTC 版)
「ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド」の記事における「大臣そして首相へ」の解説
オルランドは自由主義派の政治家としてさまざまな大臣になった。まずジョリッティ内閣で1903年から文部大臣を、1907年から1909年まで法務大臣を務めた。さらにアントニオ・サランドラ(英語版)内閣で1914年11月から1916年まで再び法務大臣となり、パオロ・ボセッリ(イタリア語版、英語版))内閣で1916年から内務大臣を務めた。 第一次世界大戦下のイタリア戦線において、いわゆるカポレットの戦いでイタリア軍が大敗し、ボセッリ内閣が退陣したことを受け、1917年10月30日にオルランドは首相に就任した。同年11月7日にイタリアのラパッロで集まった連合国の政治的軍事的指導者は最高戦争会議(英語版)を設置してイタリア戦線、ひいては全体の戦争計画を共同で練ることとした。オルランドは優れた指導力でイタリア世論を鼓舞し、翌8日にはオーストリアとの単独和平を主張したルイージ・カドルナを解任して新たにアルマンド・ディアズを総司令官に任命し、ついに1918年11月のヴィットリオ・ヴェネトの戦いでイタリアの勝利を決定的にした。オーストリア=ハンガリー軍 (en) の崩壊により、イタリア戦線は終結し、オーストリア=ハンガリー帝国は終焉を迎え、戦勝国となったイタリアは列強の地位とトレンティーノ、南チロル(アルト・アーディジェ)、ヴェネツィア・ジュリア、イストリア半島の併合を勝ち取った。この勝利により、戦争終結までイタリアを指導したオルランドは「勝利の首相」と呼ばれるようになった。
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