大型船の船長として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/11 02:55 UTC 版)
「エドワード・スミス」の記事における「大型船の船長として」の解説
1895年から9年間、スミスは客船マジェスティックの船長を務めた。1899年に第二次ボーア戦争が始まると、マジェスティックとともにケープ植民地で軍隊の輸送にあたった。南アフリカへの2回の航海は無事故で、スミスは1903年にエドワード7世から「Transport Medal」を授かり、スミスは「安全な船長」という評価を受けることとなった。ただし、以後の航海においては3度の座礁、3度の船内火災が起き、決して無事故ではなかった。 スミスの格付けが上がるにつれて、乗客や乗組員から穏やかで華麗であると評価を得るようになっていった。1904年、他の全ての船長から報告を受ける立場の専任船長となった。乗客の中には大西洋を横断する際にはスミスの船を選ぶ者もいた。また、イギリスの上流階級から、自分たちの乗る船の船長をスミスにするよう普段から要望があったことから、「大富豪たちの船長」として知られるようになった。専任船長になってからは、スミスが新造船の処女航海で舵を取ることが定例となっていた。1904年、当時世界最大であったホワイト・スター・ライン社の客船バルチックの船長となった。6月29日にリバプールを発ったバルチックの処女航海では、ニューヨークまで何の事故も発生しなかった。その3年後の1907年、再び大型客船アドリアティックを任せられ、この処女航海でも事故は発生しなかった。アドリアティックの船長時代、スミスは予備艦隊から永年勤続表彰を受けるとともに、中佐に昇進した。
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