大使・公使としての活動
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1932年(民国21年)9月、金問泗は復帰し、国際連盟に行政院副代表として出席している。また、リットン調査団にも中国側参与員団評議員として参加し、さらに国際連盟日華紛争特別会議代理全権もつとめた。翌年5月、再び駐オランダ公使に任ぜられ、着任する。また同年と翌1934年(民国23年)には、国際連盟の代理全権と全権をそれぞれつとめている。 1940年(民国29年)5月、ドイツ軍のオランダ侵攻に伴い、金問泗はジュネーヴに逃れて待命した。1941年(民国30年)5月、政府の命によりロンドンに赴き、オランダ大使とベルギー大使代理の事務を取り扱う。後にチェコとポーランドの公使事務も代理兼任した。1943年(民国32年)2月、オランダとの外交関係が公使から大使に昇格したことに伴い、金が引き続き大使となる。翌年9月には、駐ベルギー、ノルウェー、チェコ大使についても昇格あるいは兼任となった。1945年(民国34年)3月よりベルギー大使専任となったが、他国の大使事務についても暫時代理している。 戦後の1946年(民国35年)4月に、金問泗はベルギー大使の地位のまま、パリ和平会議中国代表団副代表をつとめた。同年9月には、国連ギリシャ国境紛争調査団中国代表団団長となっている。1948年(民国37年)、関税および貿易に関する一般協定(GATT)のジュネーヴ・ラウンドに中国代表団団長として参加した。翌1949年(民国38年)1月、駐ルクセンブルク公使を兼任する。
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