国際航空網の拠点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:14 UTC 版)
冷戦はベーリング海の両岸であるアメリカ領のアラスカとソ連領のシベリアとの間の交流を閉ざし、イヌイットは民族の分断を強いられたが、アラスカには新たな可能性ももたらした。1957年、スカンジナビア航空はアラスカ中部のアンカレッジ国際空港(現テッド・スティーブンス・アンカレッジ国際空港)を経由し、日本の東京とデンマークのコペンハーゲンを結ぶ北回りのヨーロッパ航空航路(ポーラールート)を開設した。ソ連領空の上空通過が禁止、あるいは解禁後も厳しく規制された反面、航空機の性能が向上し北極圏上空を通過する酷寒・長距離運航が可能となった1960年代から1980年代にかけて、アラスカは東アジアと西ヨーロッパや北アメリカを結ぶ航空路の中継地として重要になり、空港の拡充や物流拠点の整備が進んだ。また、1983年にはアンカレッジから大韓民国のソウルへ向かった大韓航空の旅客機がソ連領空に侵入し、ソ連空軍機により撃墜される大韓航空機撃墜事件が発生した。 1980年代末以降、ソ連やその後継のロシア連邦が自国上空を開放し、東アジアから西ヨーロッパへ無着陸で飛行可能な旅客機が登場したため、ポーラールートを利用する旅客便はほとんど無くなったが、貨物機はアンカレッジに寄港する例がまだ多く、アラスカは未だに重要な地位を占めている。また、ロシアとの交流が復活した他、定期旅客便が消滅した日本との間にもチャーター便が運航され、サーモン釣りなどの豊かな大自然やオーロラ見学などを楽しむ観光客を中心にした交流が、アラスカ州政府日本支局などを中心にして試みられている。
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