国家社会主義の興隆と暗殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 15:44 UTC 版)
「モーリッツ・シュリック」の記事における「国家社会主義の興隆と暗殺」の解説
ドイツとオーストリアでナチズムが興隆するとともに多くのウィーン学団の成員がアメリカ合衆国やイギリスへ去った。しかしながら、シュリックはウィーン大学に残った。1935年にファイグルが訪ねてきた際に、彼はドイツで起こったことに対する狼狽えを露わにしている。 1936年6月22日に、シュリックは講義を行いに大学に行ったが、教室への階段で以前受け持っていた学生のヨハン・ネルベックに拳銃で撃たれ、死亡した。ネルベックは、シュリックの哲学は「自分の倫理的自制を妨げた」と主張した。一方、別の説明では、ネルベックは女学生に対して失恋したことによる嫉妬に突き動かされ、シュリックが恋のライバルであり迫害者であるという偏執狂的な妄想に導かれたのだという。ネルベックは裁判で有罪となったが、事件は歪められて伝えられて大きな反響を呼ぶスキャンダルとなり、その周囲でナショナリズムや反ユダヤ主義的な感情が脚光を浴びた(シュリックは実際にはユダヤ人ではなかったが、この事件をプロパガンダに使おうとする者には重要ではなかった)。ネルベックは懲役10年のうち2年後に仮釈放され、アンシュルスの後にオーストリア・ナチス党の成員となった。
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