国家社会主義の進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 03:01 UTC 版)
「ナチ党の権力掌握」も参照 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)は政権を狙って運動を行っていたが、1932年11月ドイツ国会選挙などでは議席を減らし、クルト・フォン・シュライヒャー首相の工作により、大幹部のグレゴール・シュトラッサーが離脱するなど、勢力の低下が問題となっていた。このような状況下で1933年1月5日リッペ自由州議会選挙(ドイツ語版)が行われることとなり、ヨーゼフ・ゲッベルスはこの選挙をナチ党勢力のアピールに用いようとした。 ナチ党は、リッペ自治州内の古い遺跡であるエクステルンシュタイネ(ドイツ語版)やヘルマン記念像(ドイツ語版)などを政治的な目的で「ゲルマン民族の中心地」として宣揚していた。ナチ党幹部を集めてエクステルンシュタイネで開かれた大規模なパレードでは、それまで一度も言及されたことのない「ドイツ全土」の意味でリッペの名が語られるほどだった。こうして注目を集めたリッペ自由州ではナチ党支持が高まり、絶対多数には届かないながら約40%の得票を集め、社会民主党を破って州議会の第一党となった。この選挙はリッペ自由州で行われた最後の選挙となった。 その後、ナチ党はクルト・フォン・シュライヒャー首相への政治的圧力を強め、遂に1933年1月28日に辞任に追い込んだ。1933年1月30日にはヒトラー内閣が成立し、リッペ自由州では2月7日にナチ党のエルンスト・クラッペが地域評議会入りしてドラーケの放逐を働きかけた。1933年5月にはリッペ自由州とシャウムブルク=リッペを所管する国家代理官としてアルフレート・マイヤーがデトモルトに着任し、ここにリッペ自由州の強制的同一化が完成した。 1933年3月31日の「ラントとライヒの均制化に関する暫定法」および1933年4月7日の「ラントとライヒの均制化に関する第二法」に基づく強制的同一化により、リッペ自由州の政府・議会は一切の自由を奪われ、州憲法も停止された。
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