商用航路復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/04 07:38 UTC 版)
1905年12月に徴用解除となった「台中丸」は、同月25日に台湾航路へ復帰した。就航航路は当初の台湾航路から、大連港行き命令航路、神戸港=清津港・雄基港間の朝鮮北部航路、大阪港=那覇港間の沖縄航路などへ適宜移籍している。 商船として運行を続ける一方、シベリア出兵の際には1918年8月に日本陸軍により徴用されて、1919年(大正8年)10月に「湖南丸」と交代するまで部隊や避難民の輸送に従事した。1928年(昭和3年)の山東出兵の際にも陸軍に徴用されている。 1941年(昭和16年)12月に太平洋戦争が勃発しても、「台中丸」はすぐに徴用を受けることはなく商業航海を続けていた。1943年(昭和18年)3月に日本陸軍により徴用されて沖縄・台湾方面での輸送任務に従事するが、1944年4月に徴用解除となった。そして、鹿児島港=那覇港間の商業航路に就航することになったが、後述のように同年4月12日にアメリカ潜水艦の攻撃を受けて沈没した。
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