かし‐の‐たま〔クワシ‐〕【▽和氏の▽璧】
和氏の璧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/29 09:42 UTC 版)
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和氏の璧(かしのへき、かしのたま)は、中国の春秋時代・戦国時代の故事にあらわれた名玉。『韓非子』(和氏篇十三)および『史記』に記される。連城の璧(れんじょうのへき)とも称する。
概要
楚の国にいた
そののち、宝玉は趙の恵文王の手にわたり、秦の昭襄王が自領にある15の城と交換に入手しようと持ちかけられた。しかし、秦が信用できるかどうか悩んだ恵文王は藺相如を秦に送った。命をかけた藺相如の働きにより、約束を守る気の無かった昭襄王から璧を無事に持ち帰ることができ、「
関連項目
外部リンク
和氏の璧
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詳細は「和氏の璧」を参照 和氏の璧は、暗闇で鈍く光り、置いておくと夏は涼しく、冬は暖かくしてくれ、虫除けにもなったという言い伝えがある。そのため、春秋戦国時代では最高の宝石として位置づけられており、上述の「韓非子」以外にも「史記」、「十八史略」などの書物にも登場している。しかし、趙没落後は歴史上には登場せず、行方知れずとなっている。 一説では、趙の滅亡後に中原を統一した秦に渡り、始皇帝が和氏の璧を玉璽(伝国璽)にしたとされ、その後漢王朝の歴代皇帝もその玉璽を使用していたとされる。「三国志演義」などでもその説を採っているが、仮に和氏の璧=伝国璽だとしても、五代十国時代の946年に後晋の出帝が遼の太宗に捕らえられた時に伝国璽は紛失してしまっており、現存する可能性は低いと考えられている。 また、完璧の故事由来から「連城の璧」とも呼ばれる。
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