文王_(楚)とは? わかりやすく解説

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文王 (楚)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/18 23:11 UTC 版)

文王 熊貲
第2代王
王朝
在位期間 前690年 - 前675年
都城
姓・諱 熊貲
諡号 文王
生年 不詳
没年 文王15年6月15日
前675年6月17日
武王
鄧曼
后妃 丹姫
息嬀

文王(ぶんおう)は、春秋時代の王。

生涯

武王鄧曼のあいだの子として生まれた。武王51年(紀元前690年)、武王が薨去すると、後を嗣いで楚王となった。文王2年(紀元前688年)、文王は軍を率いて申を攻撃した。途中にに立ち寄ったさい、鄧の三甥による文王暗殺計画があったが、鄧の祁侯が三甥を止めたため実行されなかった。文王6年(紀元前684年)、軍を発して軍を莘で撃破し、蔡の哀侯を連れ帰った。文王10年(紀元前680年)、文王は蔡の哀侯の甘言に乗って息を攻め滅ぼし、息嬀を連れ帰ったが、哀侯に踊らされたことに気づくと、蔡に攻め入った。文王12年(紀元前678年)、軍を発して鄧を攻撃し、これを滅ぼした。この年の秋、を攻撃して櫟に達した。

文王14年(紀元前676年)、人が楚の権邑を占領した。権邑の尹の閻敖が逃亡したことから、文王は閻敖を処刑した。このため閻敖の一族が反乱を起こし、巴人はこれにつけこんで楚に侵攻した。文王15年(紀元前675年)春、文王は巴軍を迎撃したが、津で大敗した。引き返すと、鬻拳が入城させないため、やむなく黄に転進して、黄軍を踖陵で撃破した。凱旋の途中、湫で病にかかり、6月庚申に薨去した。在位15年。

妻子

  • 丹姫
  • 息嬀 - 陳の公女

参考文献

先代
武王
の王
紀元前690年 - 紀元前675年
次代
堵敖



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