呉王推挙と死とは? わかりやすく解説

呉王推挙と死

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 22:53 UTC 版)

慕容恪」の記事における「呉王推挙と死」の解説

367年4月慕容恪は病を患うようになった死期悟った彼は慕容暐へ「呉王垂(慕容垂)の将相将軍宰相)の才覚は臣に十倍ます。先帝慕容儁)は幼長の序列重視して臣を先に取り立てたに過ぎません。臣が死んだ後は、どうか国を挙げて呉王を尊重なさって下さい」と進言した。 また、慕容恪は自らが不在となった後の政治深く憂慮しており、慕容評猜疑心が強い人物であることから、大司馬の位を人望ある者には授けないのではないかと心配していた。その為、慕容暐庶兄である安楽慕容臧呼び出すと。彼へ向けて「今、勁なる秦(前秦)が跋扈し、強なる呉(東晋)は従おうとしておらず、二寇はいずれ進取企んでおり、ただ行動を起こす切っ掛けが無いに過ぎないのだ。そもそも安危は人を得られるかに掛かっており、国の興は賢輔を得られるかに掛かっている。もし才を推して忠なる者に任せる事が出来れば、宗盟は和して一つとなり、四海すら図るには足りないであろう。どうして二前秦東晋)ごとき難となりえようか!我は常才でありながら先帝より顧托の重を受け、いつも関・隴を掃平し、甌・呉を蕩一したいと考えてきた。先帝遺志継いで成し遂げこれまでの重任謝する事をこい願ってきたが、病は改善する事なく長引いている。恐らくこの志を遂げる事は出来ないであろうが、恨むことなどない。呉王(慕容垂)は天資英傑であり、その経略は超時している。司馬大司馬)の職は兵権統べるもでのであり、人を誤ってはならぬのだ。我が死した後は、必ずやこれに授けるように。もし親疎順序考えるのであれば、汝ではなく沖(慕容沖)に授けられるだろう。だが、汝ら才識明敏といえども多難には堪えられないであろう国家安危は実にここにあるのだ。利に目がくらん憂い忘れ、大悔に至る事の無いように」と忠告し、また慕容評にも同様の忠告残した5月、病がいよいよ重篤となると慕容暐は自ら見舞い出向いて後事を問うた。すると慕容恪は「臣が聞くところによりますと、恩に報いるには賢人薦めるのが最上であると言います賢者であれば例え板築(下賤であっても宰相とするには足りましょうましてや近親の者ならなおさらです!呉王は文武才能兼ね備え、管(管仲)・蕭何)にも匹敵します。もしも陛下彼に大政国家政治)を任せれば国家安泰です。そうでなければ必ずや秦か晋に隙を窺われましょう」 と語り、再び慕容垂重用するように言い残したその後間もなくこの世去った国中人々は皆その死を痛惜したという。桓王と諡された。

※この「呉王推挙と死」の解説は、「慕容恪」の解説の一部です。
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