呉王推挙と死
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367年4月、慕容恪は病を患うようになった。死期を悟った彼は慕容暐へ「呉王垂(慕容垂)の将相(将軍と宰相)の才覚は臣に十倍します。先帝(慕容儁)は幼長の序列を重視して臣を先に取り立てたに過ぎません。臣が死んだ後は、どうか国を挙げて呉王を尊重なさって下さい」と進言した。 また、慕容恪は自らが不在となった後の政治を深く憂慮しており、慕容評は猜疑心が強い人物であることから、大司馬の位を人望ある者には授けないのではないかと心配していた。その為、慕容暐の庶兄である安楽王慕容臧を呼び出すと。彼へ向けて「今、勁なる秦(前秦)が跋扈し、強なる呉(東晋)は従おうとしておらず、二寇はいずれも進取を企んでおり、ただ行動を起こす切っ掛けが無いに過ぎないのだ。そもそも安危は人を得られるかに掛かっており、国の興は賢輔を得られるかに掛かっている。もし才を推して忠なる者に任せる事が出来れば、宗盟は和して一つとなり、四海すら図るには足りないであろう。どうして二虜(前秦・東晋)ごとき難となりえようか!我は常才でありながら、先帝より顧托の重を受け、いつも関・隴を掃平し、甌・呉を蕩一したいと考えてきた。先帝の遺志を継いで成し遂げ、これまでの重任に謝する事をこい願ってきたが、病は改善する事なく長引いている。恐らくこの志を遂げる事は出来ないであろうが、恨むことなどない。呉王(慕容垂)は天資の英傑であり、その経略は超時している。司馬(大司馬)の職は兵権を統べるもでのであり、人を誤ってはならぬのだ。我が死した後は、必ずやこれに授けるように。もし親疎の順序を考えるのであれば、汝ではなく沖(慕容沖)に授けられるだろう。だが、汝らは才識明敏といえども、多難には堪えられないであろう。国家の安危は実にここにあるのだ。利に目がくらんで憂いを忘れ、大悔に至る事の無いように」と忠告し、また慕容評にも同様の忠告を残した。 5月、病がいよいよ重篤となると、慕容暐は自ら見舞いに出向いて後事を問うた。すると慕容恪は「臣が聞くところによりますと、恩に報いるには賢人を薦めるのが最上であると言います。賢者であれば、例え板築(下賤)であっても宰相とするには足りましょう。ましてや近親の者ならなおさらです!呉王は文武に才能を兼ね備え、管(管仲)・蕭(蕭何)にも匹敵します。もしも陛下が彼に大政(国家の政治)を任せれば、国家は安泰です。そうでなければ、必ずや秦か晋に隙を窺われましょう」 と語り、再び慕容垂を重用するように言い残した。 その後、間もなくこの世を去った。国中の人々は皆その死を痛惜したという。桓王と諡された。
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