合併による新撮影所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 01:27 UTC 版)
「日活向島撮影所」の記事における「合併による新撮影所」の解説
1912年(大正元年)10月1日、合併により営業を開始した日本活動写真株式会社(日活)は、M・パテー商会、福宝堂、横田商会、吉沢商店のそれぞれの撮影所のうち、前者2社の撮影所を閉鎖し、京都の横田商会の法華堂撮影所、東京の吉沢商店の目黒撮影所を稼働させた。閉鎖された撮影所の従業員は一部日活に引き継がれたが、京都に配転されても旅費も出ず、目黒の周囲にたむろしていた。 合併から明けて、1913年(大正2年)、東京の隅田川ほとりの杉山茂丸の別荘地、約100坪(330.58平方メートル)買収し、旧吉沢商店代表・当時日活取締役の河浦謙一と、旧福宝堂の撮影技師・吉本敬三の設計により、同年2月に着工した。旧福宝堂、旧M・パテー商会のスタッフは、建設中の敷地で撮影を開始した。当時の旧両社のスタッフは、下記の通りである。 旧福宝堂 - 脚本・演出 : 篠山吟葉、田村宇一郎、撮影 : 杉山大吉、菅谷幸吉、枝正義郎、西川源一郎、吉本敬三、俳優 : 山崎長之輔 一派 旧M・パテー商会 - 撮影 : 藤野泰、男沢粛、坂田重則、大洞元吾 工費は公称約2万5,000円で、目黒を超える本格的グラスステージが同年10月には完成、稼働が開始した。目黒の旧吉沢商店のグラスステージが閉鎖され、最終的には向島撮影所を現代劇、関西撮影所を時代劇に使用するという形で決定がおこなわれた。現在東映が踏襲する東西撮影所の棲み分けの原型が生まれた。 目黒から移ってきたスタッフは下記の通りである。 旧吉沢商店 - 脚本・演出 : 小口忠、桝本清、鬼頭磊三、新海文次郎、背景(美術) : 斎藤五百枝、撮影 : 千葉吉蔵、村上満麿、小西亮、俳優 : 関根達発、森三之助、五味国太郎、立花貞二郎、横山運平 土地提供者の杉山茂丸の推薦で入社した山崎勝造が撮影所長に就任した。
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