句作に励む
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1941年(昭和16年)に三国町に転居した後も、同町内の坪内美佐尾や吉川芳子(後の中村芳子)らと句作に励む。武生市の嵯峨柚子主宰のホトトギス系俳誌「櫨子」に参加。1942年(昭和17年)、鎌倉に住む柏翠がたびたび三国を訪問し、愛子たちを指導する。1945年(昭和20年)2月に、柏翠は鎌倉の鈴木療養所を退所し、三国へ疎開する。はじめは永正寺に下宿していたが、しばらくして愛子の家に移る。 愛子は、三国帰郷後も、句仲間と句会や吟行を重ねていた。1942年(昭和17年)には、皆吉爽雨、坪内美佐尾と東尋坊、雄島へ吟行する。愛子は、柏翠とともに、三好達治、多田裕計、畠中哲夫ら、当時三国にいた文人たちとも交流する。1945年(昭和20年)、高浜虚子が立子、年尾とともに三国を訪れ、伊藤柏翠、森田愛子、三好達治と愛子宅で句会、そのあと滝谷寺へ吟行する。このとき、高浜虚子は愛子宅の2階の座敷を「愛居」と命名する。愛子は虚子について「私の阿弥陀様は先生」とかいている。尊敬する存在であり、俳句だけでなく人生の師であった。三好達治は、「愛居」での句会の思い出を「自慢」と題して書き、愛子の「わが家の對岸に来て春惜しむ」の句を「何とゆかしく瀟洒でユーモラスな句ではないか。」と書いている。多田裕計も、三国へ疎開中の多田裕計を主人公として三国の文人たちとの交流を描いた小説「三国抄」を書き、愛子や柏翠も登場する。
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