古代の吉野と信仰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 09:32 UTC 版)
仏教が伝来する以前の日本では、自然崇拝や精霊崇拝を中心とする古神道が信仰の中心であった。吉野でも、宮の平遺跡で祭壇と見られる環状配石遺構が発見されており、また竜門山の史書における初見は神仙境として登場している。 587年に蘇我馬子が排仏派の物部守屋を滅ぼした丁未の乱ののち、推古天皇2年(594年)に仏教(三宝)興隆の詔が発せられて以降、各地に寺院が建てられるようになったが、吉野においても多数の寺院が建てられている。一方で、役小角が金峰山(吉野山・大峰山)で蔵王権現を感得し、従来の山岳信仰と仏教を習合した日本独自の修験道を開き、発達していくことになる。 また859年(貞観元年)には、五穀豊穣を願うために陰陽師、滋岳川人が吉野郡の高山で、虫害除去の祭祀を行っている(三代実録巻三)。 以下に現在の吉野地方(五條市を含む)にある創建時期が奈良時代(9世紀)以前と伝えられる寺院と、『延喜式神名帳』(延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十)に記載されている神社を列記する。
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