古代の国交の要衝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 12:52 UTC 版)
大陸外交や軍事拠点としての大宰府は、前身は三角縁神獣鏡などが出土する那珂遺跡群(福岡市)であったと考えられている。また、『魏志倭人伝』に見られる伊都国の一大率は、後の大宰府と良く似たシステムとして指摘されている。 玄界灘沿岸は、弥生時代や古墳時代を通じてアジア大陸との窓口という交通の要衝であった。そのため、畿内を地盤とするヤマト政権が外交や朝鮮半島への軍事行動の要衝として、出先機関を設置することになった。 『日本書紀』宣化天皇元年(536年)条の「夫れ筑紫国は、とおくちかく朝(もう)で届(いた)る所、未来(ゆきき)の関門(せきと)にする所なり。(中略)官家(みやけ)を那津(なのつ、博多大津の古名)の口(ほとり)に脩(つく)り造(た)てよ」 崇峻天皇5年(593年)条の「駅馬を筑紫将軍の所に遣して曰はく」 推古天皇17年(609年)4月の条に「筑紫大宰(つくしのおほみこともち)、奏上して言さく」 などの記述が、太宰府がヤマト政権の出先機関として設置され存在した証拠と考えられる。
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