原田信種説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 15:49 UTC 版)
丸山雍成は原田信種という武将を挙げる。加藤清正配下で4000石の知行を得ていた重臣で、文禄元年(1592年)に咸鏡道の吉州、次いで端川に在番したことが確認できるが、翌年2月末に加藤清正軍が漢城に撤退して以降は、原田信種の名前が一時期記録から消える(ただしこの点は丸山の認識に誤りがある。後述)[独自研究?]。このことから、端川で孤立し籠城したものの、持ちこたえられずに降伏したのではないかと推論するものである。家名が記録に復活したときには知行が1/10になっていることから、清正が重臣の降伏を隠蔽する一方、大幅な減知の上で原田家を残したとする。 しかし原田信種が文禄2年以降消えたというのは間違いで、 文禄二年六月吉日・西左衛門四郎宛(原田)信種加冠状写(馬場文書、新修福岡市史) 文禄四年五月吉日・馬場平介宛(原田)信種官途状(同上) 文禄五年正月吉日・行弘六允宛(原田)信種官途挙状(行弘文書:筑前国怡土郡多久村・東京大学史料編纂所DB・古文書ユニオンカタログ) が残されている。原田は文禄2年から5年にかけて家臣に文書を発給しているわけだから、消えてはおらず、日本に帰国している。上記の3点の文書の存在によって、文禄2年2月以降に原田信種が降倭となって朝鮮側で死亡したという説は成立しない[独自研究?]。なお、原田は数年後である1598年の蔚山城の戦いの最中に戦死したとする説もある(原田信種の項を参照。『大蔵朝臣原田家歴伝』による)。
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