博愛社として
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日本赤十字社の前身は旧田野口藩主の伯爵大給恒(おぎゅう ゆずる)や元老院議官で後に伯爵となった佐野常民(さの つねたみ)、同じく後に子爵となる桜井忠興(さくらい ただおき)らが、西南戦争時の1877年(明治10年)に熊本洋学校(くまもと ようがっこう)に設立した博愛社(はくあいしゃ)である。佐野らは、「戦争の悲惨な状況が拡大していること」に鑑みて、陸軍省に「敵味方の区別なく救護を行う」という赤十字の精神を発現する博愛社として、救護班を派遣することを願い出た。しかし、陸軍卿代行の西郷従道(明治維新の功労者西郷隆盛の実弟)は、「内戦は国家間戦争とは異なり、逆賊=犯罪者の救護は赤十字の救護とは言えないのではないか」と、その精神に理解を示せず、設立を許可しなかった。そこで、佐野らは元老院議長で征討総督の有栖川宮熾仁親王に直接、設立と救護班の派遣を願い出る。逆徒であるが天皇の臣民である敵方をも救護するその博愛の精神を熾仁親王は嘉し、中央に諮る事なく設立を認可した。ただ「敵味方ともに助ける」というその思想が一般兵士にまでは理解されず、反乱士族側と明治政府軍側の双方から攻撃もしくは妨害などを受け死者が出たと言われている。
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