南涼・北涼の自立
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同月、禿髪烏孤は大都督・大将軍・大単于・西平王を自称し、自立を宣言した(南涼の建国)。 さらに広武の兵を動員すると、金城へ侵攻してこれを陥落させた。呂光は将軍竇苟に禿髪烏孤の討伐を命じたが、街亭において返り討ちに遭った。 盧水胡の沮渠羅仇は元々張掖に割拠していたが、やがて後涼に帰順して尚書に任じられていた。彼は呂纂に従って西秦征伐にも赴いていたが、呂纂の敗死したのは沮渠羅仇の責任であると讒言する者がいた。 この時期になると、呂光は年老いて昏乱し、讒言を容易く信じるようになり、これを真に受けて沮渠羅仇と弟の三河郡太守沮渠麹粥を誅殺してしまった。 4月、沮渠羅仇の甥である沮渠蒙遜は葬儀の為に郷里へ帰ると、諸部族の民1万余りを糾合して後涼に反旗を翻し、中田護軍馬邃を殺害した。さらに臨松郡へ侵攻してこれを攻め落とすと、金山に割拠するようになった。 5月、呂光は太原公呂纂に兵を与えて忽谷へ侵攻させ、沮渠蒙遜を撃破した。沮渠蒙遜は山中へ逃げ込んだ。 沮渠蒙遜の従兄である沮渠男成は後涼の将軍として晋昌郡を守っていたが、沮渠蒙遜の挙兵を知って貲虜(匈奴の部族名)へと亡命した。そして諸々の胡人を扇動して数千の衆を集めると、福禄・建安へ侵攻した。後涼の寧戎護軍趙策がこれを阻んで撃退すると、沮渠男成は楽涫まで後退した。後涼の酒泉郡太守塁澄は将軍趙策・趙陵を始め、歩兵騎兵1万余りを率いて楽涫へ侵攻したが、返り討ちに遭って塁澄・趙策が戦死した。沮渠男成は再び建康郡へ侵攻すると、建康郡太守段業へ寝返りを持ち掛けたが、段業は応じなかった。その後、20日余りに渡って段業は対峙を続けたが、外からの救援は無く、建康郡の人である高逵と史恵は沮渠男成へ降るよう勧めた。段業はかねてより後涼の侍中房晷・僕射王詳と不和を生じていた事もあり、このままでは身の置き所が無くなってしまうと思い、遂にこれを受け入れた。沮渠男成らは段業を大都督・龍驤大将軍・涼州牧・建康公に推戴した(北涼の建国)。 これを受け、呂光は呂纂に段業討伐を命じたが、沮渠蒙遜は臨洮へ進出して段業を援護した。両軍は合離において交戦するも、呂纂は大敗を喫した。
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