南涼・北涼の自立とは? わかりやすく解説

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南涼・北涼の自立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 08:24 UTC 版)

呂光」の記事における「南涼・北涼の自立」の解説

同月禿髪烏孤大都督・大将軍・大単于西平王を自称し自立宣言した南涼建国)。 さらに広武の兵を動員すると、金城侵攻してこれを陥落させた。呂光将軍竇苟に禿髪烏孤討伐命じたが、街亭において返り討ち遭った盧水胡の沮渠羅仇は元々張掖割拠していたが、やがて後涼帰順し尚書任じられていた。彼は呂纂に従って西秦征伐にも赴いていたが、呂纂敗死したのは沮渠羅仇の責任であると讒言する者がいた。 この時期になると、呂光年老いて昏乱し、讒言容易く信じるようになり、これを真に受けて沮渠羅仇と弟の三河太守沮渠麹粥を誅殺してしまった。 4月、沮渠羅仇の甥である沮渠蒙遜葬儀為に郷里帰ると、諸部族の民1万余り糾合して後涼反旗を翻し中田護軍馬邃を殺害した。さらに臨郡へ侵攻してこれを攻め落とすと、金山割拠するようになった5月呂光太原呂纂に兵を与えて忽谷へ侵攻させ、沮渠蒙遜撃破した沮渠蒙遜山中逃げ込んだ沮渠蒙遜従兄である沮渠男成後涼将軍として晋昌郡守っていたが、沮渠蒙遜挙兵知って匈奴部族名)へと亡命した。そして諸々胡人扇動して数千の衆を集めると、福禄建安侵攻した後涼の寧戎護軍趙策がこれを阻んで撃退すると、沮渠男成楽涫まで後退した後涼酒泉郡太守塁澄は将軍趙策・趙陵を始め歩兵騎兵1万余り率いて楽涫侵攻したが、返り討ち遭って塁澄・趙策が戦死した。沮渠男成は再び建康郡へ侵攻すると、建康太守段業寝返り持ち掛けたが、段業応じなかった。その後20日余りに渡って段業対峙続けたが、外からの救援無く建康郡の人である高逵と史恵は沮渠男成へ降るよう勧めた段業かねてより後涼侍中房晷・僕射王詳と不和生じていた事もあり、このままでは身の置き所無くなってしまうと思い遂にこれを受け入れた。沮渠男成らは段業大都督・龍驤大将軍涼州牧・建康公に推戴した(北涼建国)。 これを受け、呂光呂纂段業討伐命じたが、沮渠蒙遜臨洮進出して段業援護した両軍は合離において交戦するも、呂纂大敗喫した

※この「南涼・北涼の自立」の解説は、「呂光」の解説の一部です。
「南涼・北涼の自立」を含む「呂光」の記事については、「呂光」の概要を参照ください。

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