午後(15時台)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/30 08:29 UTC 版)
「テレビ東京系列株式市況ニュース枠」の記事における「午後(15時台)」の解説
株式市況(1972年4月 - 1974年9月) ニュースと株式(1974年10月 - 1975年9月) きょうの株式(1975年10月 - 1987年9月、中断期間あり) 株式ニュース(1987年10月 - 2001年9月28日) Closing Bell(2001年10月1日 - 2008年9月26日) NEWS FINE 第1部(2008年9月29日 - 2011年9月30日) Mプラス Express(2011年10月3日 - 2013年3月29日) L4 YOU!プラス(2013年4月1日 - 2016年4月1日) - 2015年9月14日より関東ローカル。
※この「午後(15時台)」の解説は、「テレビ東京系列株式市況ニュース枠」の解説の一部です。
「午後(15時台)」を含む「テレビ東京系列株式市況ニュース枠」の記事については、「テレビ東京系列株式市況ニュース枠」の概要を参照ください。
午後(誉田の戦い)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 06:43 UTC 版)
このころになって前隊の残り、薄田兼相、明石全登、山川賢信らが道明寺に到着し、幕府軍を迎え撃った。薄田は自ら太刀を振るったが戦死、残余の部隊は誉田(こんだ)方面に後退した。 そこへ後隊の毛利勝永が道明寺に到着、真田信繁らは後退してきた兵を収容し誉田村付近に着陣した。伊達勢の片倉重長は、真田勢を見るとこれに攻め寄せた。 片倉は部隊を前後2隊に分け、左右に鉄砲隊を展開させて攻撃した。これに対し真田勢も鉄砲で応戦しつつ、兵を伏せ片倉勢の接近を待って迎え撃った。片倉自身が馬上4騎を切り伏せたり、渡辺糺は負傷するなど激戦が展開されたが、真田勢が伊達勢を道明寺辺りまで押し込んだ後、自身は藤井寺まで後退し、毛利勢と合流した。幕府軍は道明寺から誉田の辺りで陣を建て直し、豊臣軍は藤井寺から誉田の西にかけて布陣、両軍が対峙し、膠着状態になった。 午後2時半頃、大坂城から八尾・若江の敗報と退却の命令が豊臣軍に伝えられた。豊臣軍は真田隊を殿軍とし、午後4時過ぎから順次天王寺方面へ撤退を開始した。水野勝成は追撃を主張したが、諸将は兵の疲労を理由に応じなかった。
※この「午後(誉田の戦い)」の解説は、「道明寺の戦い」の解説の一部です。
「午後(誉田の戦い)」を含む「道明寺の戦い」の記事については、「道明寺の戦い」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から午後を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- >> 「午後」を含む用語の索引
- 午後のページへのリンク