千引の石とつぼのいしぶみ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/19 00:48 UTC 版)
「つぼのいしぶみ」の記事における「千引の石とつぼのいしぶみ」の解説
15世紀の作と思われる謡曲『千引』でもつぼのいしぶみが出てくる。概要は「陸奥の壺の碑に千引の石という巨石があった。この石に魂があり、人を取るので捨てようとして各戸から人を徴集した。若い貧しいつぼこという娘がいたが、男手が無かったため一人男に混じって徴集されることを悲しみ、村を出る決意をしていた。娘には以前から契りを結んでいた男がいた。娘の憂いを聞き、自分が千引の石の精であることを明かした。自分はたとえ千人に引かれても動かないが、娘が引くならやすやすと引かれようと約束をする。当日、千人の男が引いても石は動かなかったが、女が一人引くと大石は軽々と動いた。それ以来、村人は娘を観音の化身とあがめ、娘は富者となった」というものである。南部の坪地方に伝わる伝説はこの謡曲とほとんど同じ内容である。この謡曲ではつぼのいしぶみは地名として扱われており、千引の石とは違うものであった。 双方の石を結びつけて考えたのが、水戸藩の地理学者の長久保赤水であった。赤水は1760年『東奥紀行』で多賀城碑は単に多賀城修繕碑であり、つぼのいしぶみはかつて南部の壺村にあって、日本中央と記されていたが、石文明神として祀られて無くなった石碑だとした。その後のつぼのいしぶみについて述べる学者の多くが赤水の説に賛同をした。古川古松軒や菅江真澄らが長久保赤水の説に賛同している。(菅江真澄は文面や距離的な問題から多賀城碑はつぼのいしぶみではないと主張している。また、南部藩士の清水秋全は多賀城の碑文を見て「あれは単なる東西南北の遠近を記してるだけで尊く深い意味は無い。壺碑は南部坪村にあり日本の中央と云う意味深長なる銘文は誠に深い理由がある」と書いた。) それに対し、1801年(享和元年)伴蒿蹊は『閑田耕筆』で、千曳神社の石は千引の石で、壺碑ではなく、壺碑は大水に流されてしまったのだという話を伝え、壺の名は壺川によるものであり、また多賀城碑も壺碑ではなく、東の碑、西の碑という説も採りがたいとした。
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