医学から文学へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 04:24 UTC 版)
東京府豊多摩郡渋谷町金王町(現在の東京都渋谷区渋谷)出身。父は埼玉県の地主の次男。渋谷町立常磐松尋常小学校(現・渋谷区立常磐松小学校)から東京府立一中(現・東京都立日比谷高等学校)、旧制第一高等学校理科乙類(現・東京大学教養学部)を経て東京帝国大学医学部に進学。幼少期より日本の古典語及び漢文に親しみ、高等学校では英語とドイツ語を学び、大学時代にはフランス語とラテン語を学んだ。1943年に東京帝国大学医学部を繰り上げ卒業、東京帝国大学医学部附属医院(現在の東京大学医学部附属病院)に配属される。 また、学生時代から文学に関心を寄せ、在学中に中村真一郎・福永武彦らと「マチネ・ポエティク」を結成。その一員として韻律を持った日本語詩を発表し、特に「さくら横ちょう」は、中田喜直と別宮貞雄、神戸孝夫が曲を付けたことで有名になった。 小説や文芸評論を執筆するかたわら新定型詩運動を進める。『羊の歌』によれば、1941年12月8日の日米開戦の夜は、文楽を観劇した。肋膜炎のため徴兵猶予となる。
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