北海道函館西高等学校への統合と本校の閉校についてとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 北海道函館西高等学校への統合と本校の閉校についての意味・解説 

北海道函館西高等学校への統合と本校の閉校について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 09:49 UTC 版)

北海道函館稜北高等学校」の記事における「北海道函館西高等学校への統合と本校の閉校について」の解説

本校統合先であり、事実上存続校である「北海道函館西高等学校」の表現について混乱生じるため、本項では、2019年3月31日までのものを「(旧)北海道函館西高等学校」と、 2019年4月1日からのものを「(新)北海道函館西高等学校」と表現している。 統合日は、2019年平成31年4月1日である。 母体校及び統合後使用校舎は、(旧)北海道函館西高等学校北海道函館市元町7番17号)である。 統合以降本校在校生及び卒業生学籍は(新)北海道函館西高等学校転籍されず、北海道函館稜北高等学校のままとなる。従って本校在校生は、統合以降も本校舎本校生徒として在籍通学し本校生徒として卒業した本校平成31年以降生徒募集停止となった平成31年度は第2学年第3学年が、令和2年度第3学年のみが在校生となった。 (旧)北海道函館西高等学校在籍している生徒は、統合以降(旧)北海道函館西高等学校校舎に、(新)北海道函館西高等学校生徒として在籍通学する。そして(新)北海道函館西高等学校生徒として卒業する本校卒業生は「一般財団法人稜北財団北海道函館稜北高等学校同窓会」へ入会し、(旧)北海道函館西高等学校卒業生は「北海道函館西高等学校つゝじヶ丘同窓会」へ入会していた。一方、(新)北海道函館西高等学校卒業生は、「北海道函館西高等学校つゝじヶ丘同窓会」へ入会することになる。2020年現在、両同窓会統合予定はない。 北海道立学校設置は「北海道立学校条例昭和39年北海道条例41号)」に基づく。平成30年第3回北海道議会定例会では、両校統合関わる加筆修正加えられない改正条例案が提出され可決した議案第10号北海道立学校条例一部改正する条例案」2018年平成30年10月10日原案可決)。つまり統合以降も同条例に両校名記されていることから、条例上は両校が独立して存在している。そして令和2年第3回北海道議会定例会では、本校名を廃止のために削る旨が記され改正条例案(議案第11号北海道立学校条例一部改正する条例案」2020年令和2年10月2日原案可決)が提出され可決した。これにより本校2021年令和3年3月31日をもって廃止閉校)した。よって両校統合後校名は、母体校の「北海道函館西高等学校」が継続することになった北海道教育委員会本校及び(旧)北海道函館西高等学校としては、両校を「再編統合」とし、(新)北海道函館西高等学校を「新設校」と表現していた。しかし以上の理由から、事実上は「本校閉校」と「北海道函館西高等学校存続」という形になった。 (新)北海道函館西高等学校校章校歌校訓制服は、(旧)北海道函館西高等学校のものから一新された。また「学年制」のよる全日制課程普通科から、「単位制」による全日制課程普通科変更された。間口数(学級数)は、両校の間口数を合わせた間口となった2019年令和2年4月1日から本校内に知的障がい者教育を行う「北海道函館高等支援学校」が開校した本校閉校する2021年令和3年3月31日まで両者同居し本校閉校後は校舎敷地北海道函館高等支援学校引き渡した

※この「北海道函館西高等学校への統合と本校の閉校について」の解説は、「北海道函館稜北高等学校」の解説の一部です。
「北海道函館西高等学校への統合と本校の閉校について」を含む「北海道函館稜北高等学校」の記事については、「北海道函館稜北高等学校」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「北海道函館西高等学校への統合と本校の閉校について」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「北海道函館西高等学校への統合と本校の閉校について」の関連用語

北海道函館西高等学校への統合と本校の閉校についてのお隣キーワード

北海道内の地域区分における北空知

北海道内の簡易裁判所

北海道内テレビ6局合同キャンペーン

北海道内専用車の設定と改番

北海道出身

北海道函館西高等学校 校歌

北海道函館西高等学校への統合と本校の閉校について

北海道勇払開拓試験場

北海道勝手にキャッチコピー選手権

北海道北海道ではほぼ全域で流行し、明治時代以降の北海道開拓に支障を来していた。例えば、1907年3月に着工された網走線鉄道工事の陸別・置戸間では、マラリア、皮膚病などに悩まされ、網走線請負人が共同で普通病院を設置しなければならなかった。また、深川村に駐屯していた屯田兵とその家族にマラリアの流行があり、1900年には1471名の屯田兵と家族が感染していた。1916年には、北海道全域のマラリア患者数は、2,003名であった。北海道で流行したマラリアは、三日熱マラリアであり、その大多数は土着マラリアであると思われるが、撲滅された。ただし、今の北海道にも、かつて、日本で熱帯熱マラリアおよび三日熱マラリアを流行させたと推察されているオオツルハマダラカ、あるいは、シナハマダラカなどのハマダラカは生息している。本州

北海道北見バス、遠軽町営バス

北海道十勝スカイアース

北海道南西沖地震による被害

検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



北海道函館西高等学校への統合と本校の閉校についてのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの北海道函館稜北高等学校 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS