北朝鮮の主張による「ジェネラル・シャーマン号放火事件」の顛末
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「金膺禹」の記事における「北朝鮮の主張による「ジェネラル・シャーマン号放火事件」の顛末」の解説
金日成の回顧録『世紀とともに(英語版、中国語版、朝鮮語版)』によると、金膺禹が18歳の時にあたる「1866年7月、アメリカの武装商船ジェネラル・シャーマン号が朝鮮国に通商を求めて、大同江を溯り平壌のトゥル島に停泊した。金膺禹は、村民たちと一緒に家々から網を集めて、対岸の乫遊島と萬景峰の間に幾重にも張り巡らせて、ジェネラル・シャーマン号の航路を遮った。その後「ジェネラル・シャーマン号は、羊角島に航路を採って大砲を撃ちならし、周辺の民家から財貨を強奪している」という噂を聞いた金膺禹は、村民を引き連れて平壌城に駆けつけ、平壌の官兵と協力して、柴を積んだ小舟を何艘もつないで放火をし、船内の乗組員を皆殺しにした」とされる。 また、北朝鮮の歴史教科書『ウィヒョク』や『チンヒョク』によると「1866年8月、アメリカ帝国主義武裝侵略船「ジェネラル・シャーマン号」が、大同江に侵入した時、万景台とその周辺の農民に呼びかけ、義兵部隊を組織し、強力な陣地防御戦法で敵を完全に撃退し、当時の世界中の人を驚かせた」と北朝鮮の歴史では、金日成主席の曾祖父の金膺禹の指揮の下に「ジェネラル・シャーマン号」は放火されたと強調されているが、朴珪壽の事件報告書をはじめ、史実では、平安監司朴珪壽の指揮によってジェネラル・シャーマン号は撃沈されたものであり、事件報告書にも、当時の歴史文献にも金膺禹の記録は存在しない。文盲で無学の金膺禹に陣地防御戦法の知識があったとは思えないし、一介の小作人であった金膺禹が義兵を率いて戦ったというのは信憑性に欠けるが、北朝鮮では史実として教育しており、1966年ジェネラル・シャーマン号撃沈の100周年を記念して『ジェネラル・シャーマン号撃沈記念碑』が立てられている。
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