包囲戦までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/29 00:57 UTC 版)
「マリーエンブルク包囲戦 (1410年)」の記事における「包囲戦までの経緯」の解説
詳細は「ポーランド・リトアニア・ドイツ騎士団戦争」および「タンネンベルクの戦い (1410年)」を参照 1410年7月、ポーランドとリトアニアの同盟軍はマリーエンブルク制圧を目指しプロイセンに侵攻した。守るドイツ騎士団は、先立つ7月15日のタンネンベルクの戦いで指揮官や兵の大部分が戦死するか捕虜となる大敗を喫しており、その生き残りが各地の砦にこもって連合軍の侵攻を阻もうとした。タンネンベルクで勝利した連合軍が同地に3日間とどまっている間に、ドイツ騎士団のシュヴァイツ(現シフィエチェ)司令官ハインリヒ・フォン・プラウフェンが指揮を執ってマリーエンブルクの防備を固めていた。フォン・プラウフェンはタンネンベルクの戦いには参加していなかったものの、3000人の予備軍を率いてシュヴァイツに待機していた信頼厚い指揮官だった。彼の行動は、タンネンベルクの戦いで戦死した前騎士団総長ウルリッヒ・フォン・ユンキンゲンが万一の際の指揮権の空白を避けるために戦前に与えていた指示によるものだった可能性もあるが、定かではない。ポーランドとリトアニアの連合軍がマリーエンブルクへ向けて進軍を始めると、ホーエンシュテイン(現オルシュティネク)、オスターオーデ(現オストルダ)、クリストブルク(現ジェジゴン)の三城が抵抗なく降伏した。連合軍の進軍速度は遅く、1日に15キロメートルほどしか進まなかった。これがフォン・プラウフェンに防衛体制を整える暇を与えた。後世の歴史家たちは、これがポーランド・リトアニア史上最大級の戦略的失敗であると非難するとともに、その原因について様々な説を唱えている例えばポーランドの歴史家パヴェウ・ヤシェニツァは、ドイツ騎士団を滅亡させた場合にポーランドがその領土のほとんどを獲得することになり、ポーランドとリトアニアの勢力バランスが崩れることを恐れたヴワディスワフ2世が、意図的にドイツ騎士団を延命させたのだと考えている。ただこの説を裏付ける一次資料がないため、証明する手立てが無いのが現状である。
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