効果がなかった同盟国戦略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 02:06 UTC 版)
「ナチス・ドイツのフランス侵攻」の記事における「効果がなかった同盟国戦略」の解説
第一次世界大戦が終わった後、フランスの指導部は、将来のドイツによる復讐に備えて、同盟国を育てることにした。フランスが選んだのは、ポーランド、チェコスロバキア、ベルギーであった。ポーランド、チェコスロバキアは、戦間期にフランスの軍事経済援助を受けて軍備を充実させた。しかし、1938年3月に始まったズデーテン危機は、1939年3月に、チェコスロバキア解体という結果に終わった。シュコダ社の兵器生産工場やチェコスロバキア軍の装備は、そっくりドイツに引き継がれ、特に、LT-35,LT-38戦車は、対フランス戦で有効に活用された。 開戦とともに、ポーランド軍は、期待されていたドイツ軍を東部に牽制する役目は十分に果たしたが、英仏軍は、その機会を活かすことはなかった。ドイツがポーランド戦に全力を注力していた9月は、独仏国境ではフランス軍は圧倒的な量的優勢であったが、フランス軍は、お茶を濁す程度の攻勢を行っただけで、ザール地方で約10kmほど進撃したのち、すぐ撤退してしまった(まやかし戦争)。 1934年にレオポルド3世が即位すると、ベルギーはフランスとの同盟から国際連盟重視へ次第に外交方針を切り替え、同盟関係はやがて消滅してしまった。フランス側の対独戦略は、ディール計画が根幹であって、ベルギー領内へのフランス軍の展開を前提としていたにもかかわらず、両国間での協同作戦計画が練られることはなかった。
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