創業者の生い立ち
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「パテック・フィリップ」の記事における「創業者の生い立ち」の解説
1811年4月4日 - 創業者フランティシェック・チャペック (František Čapek ) 、ボヘミアの現在はヤロミェジ (Jaroměř ) の一部であるセモニツェ (Semonice ) 村に産まれた。後に時計職人としてワルシャワに移住し、フランチシェック・チャペック (Franciszek Czapek ) とポーランド風に改名。 1812年7月12日 - 創業者アントニ・パテック (Antoni Patek ) 、「プラヴジツ (Prawdzic ) 紋章」を持つポーランド貴族(シュラフタ)の子としてポーランド、ルブリン市近郊のピャスキ・ルテルスキェ (Piaski Luterskie ) に産まれた。 1821年頃 - パテック、10歳の時両親とともにワルシャワへ移った。 1828年 - パテック、16歳でポーランド陸軍に入隊、「第1騎馬ライフル連隊」に配属。 1830年 - パテックとチャペック、ポーランド人によるロシア支配に対する反乱11月蜂起に参加した。パテックは、ロシア軍との戦闘における活躍により少尉に昇進、「8月1日旅団」の副官に昇格。1831年にはその功績が認められポーランド軍最高の栄誉である「ヴィルトゥーティ・ミリターリ勲章」 (Virtuti Militari ) を授与された。 同時期、チャペックはポーランド人の民兵組織である「ポーランド国民衛兵」の兵士としてワルシャワでロシア軍を相手に戦った。 1832年 - パテック、ロシア軍が制圧したポーランドから脱出。このときポーランド軍がその脱出ルート上に設置した5箇所の集結地点のうちの1つ、ミュンヘン近郊のバンベルクにあったポーランド軍陣地の司令官に任命された。 フランスへ亡命後しばらくは亡命ポーランド軍将校としてフランス側につき各地を転戦した。その後、軍を退役しアミアンに定住し植字工となった。
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