利用厚生学派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/08 10:04 UTC 版)
実学者は主流の老論派からも、とくに朝鮮燕行使として清を訪れた人々の中から現れた。 洪大容(1731年-1783年)は1765年に中国に赴いて、欽天監の西洋人と筆談してから西洋の科学を受容するようになり、『医山問答』で華夷思想を否定した。 朴趾源(1737年-1805年)は洪大容とまじわって西洋の科学を学び、1780年に乾隆帝の70歳を祝う使節に加わって中国を訪れ、『熱河日記』を著して中国や西洋の文物を紹介した。 朴趾源の門人である朴斉家(1750年-1805年以降)は北京を3回訪れた。『北学議』を著し、中国の進歩を認め、朝鮮の発展のために清を受容することを主張した。また経済を発展させるために清・日本・琉球・西洋を問わずに通商すべきだとした。 金正喜(1786年-1856年)は朴斉家に学び、北京を訪れて翁方綱や阮元と知りあった。清朝考証学の影響を受けて『金石過眼録』などを著した。
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