分村の動きと鹿島村設置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 21:04 UTC 版)
「鹿島町藺牟田」の記事における「分村の動きと鹿島村設置」の解説
ウィキソースに下甑村大字藺牟田の区域を以て新たに薩摩郡鹿島村を置く件の総理府告示があります。 下甑村の中心集落であった手打とは陸路では徒歩連絡すらも困難、海路も荒天時に度々不通となり、かつ手打の役場に行くには往復2泊3日の行程となることもあり、同一の自治体を構成するには著しく不便であった。 分村の動きはかつてからあり、1916年(大正5年)には藺牟田の区域を下甑村から分村する旨の陳情が下甑村に出されており、1946年(昭和21年)には、大字藺牟田一円を区域としていた下甑村第六区の区長から下甑村に対して分村の請願が出されていた。 1949年(昭和24年)1月に行われた下甑村議会において大字藺牟田の区域を下甑村から分村する議案が審議され可決された。3月27日には鹿児島県議会において「第五三号 薩摩郡下甑村の境界変更並びに鹿島村の設置に関する件」が上程され、満場一致で可決された。後日、官報に掲載された「 村の廃置分合」(総理庁告示)には以下のとおり、1949年(昭和24年)4月1日より下甑村大字藺牟田の区域を以て鹿島村を設置する旨内閣総理大臣により告示された。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}地方自治法第七條第一項の規定により、昭和二十四年四月一日から、鹿児島縣薩摩郡下甑村の区域のうち、大字藺牟田の区域をもつて新たに薩摩郡鹿島村を置く旨、鹿児島縣知事から届出があつた。 — 村の廃置分合(昭和24年総理庁告示第52号) 1949年(昭和24年)4月1日に下甑村から大字藺牟田が分立し薩摩郡「鹿島村」が発足。これに伴い、下甑村の大字藺牟田は鹿島村の唯一の大字「藺牟田」となった。鹿島村発足時の人口は2,956人、戸数は545戸であった。財産分与については村有財産を分割して処分することとし、下甑村は鹿島村に7万円を交付した。 村名は既に同じ薩摩郡内に藺牟田村(現在の祁答院町藺牟田)が存在していたことから、混同を避けるため鹿島神社の社名より命名された。
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