出獄・書記長就任
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1945年(昭和20年)10月1日、徳田らの所在がフランス人ジャーナリストのロベール・ギランによって明らかにされた。10月5日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の命令に基づき、政治犯を釈放すべき旨を司法省が全国の検事局・刑務所に対し通告した。10月7日の朝には府中刑務所内で朝日新聞の取材に応じている。10月10日、徳田は18年に亘る獄中生活を終えた。出獄した徳田は連合軍を「解放軍」と呼び、GHQへの感謝デモを企画した。 非転向を貫き党内地位を高めた徳田は日本共産党を再建し、同年12月の第4回党大会で書記長に就任する。1946年(昭和21年)には中華民国から帰国した野坂参三と共に衆議院議員に当選(続いて中選挙区の東京3区から以後3期連続当選)。同年、従兄・耕作の未亡人である徳田たつ(旧姓金原)と再婚した。 1947年(昭和22年)の二・一ゼネストに関与したがマッカーサーの指令により中止となり、12月の第6回党大会において徳田は「アメリカ占領軍は、完全にアメリカ帝国軍の執行者になった」と主張し、GHQ・連合軍との蜜月は解消された。翌年には反共主義者による襲撃を受けている。
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