出帆の時
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:09 UTC 版)
「フェルディナンド・マゼラン」の記事における「出帆の時」の解説
マゼランの艦隊は王の命令通り1519年8月10日にセビリアを出発する。しかし、準備が整っていない艦隊は120キロメートル先のサンルーカル・デ・バラメーダ港に留まって準備を終え、1519年9月20日にいよいよ航海に旅立つ。艦隊はカナリア諸島に立ち寄り、そこからマゼランは南に進路を取った。予定の航路は南西であり、南に向かうマゼランの指示は当初の計画からは外れていたが、これに、艦隊の総監察官でサン・アントニア号の船長でもあるスペイン人のフアン・デ・カルタヘナが異議を唱えた。マゼランはカルタヘナの異議を無視し、反抗的な態度を取ったカルタヘナを逮捕する。マゼランはサン・アントニオ号の船長にスペイン人の経理官アントニオ・デ・コカを一旦当てたがまもなく更迭し、ポルトガル人でマゼランの従兄弟のメスキータを任命する。やがて南西に進路を取った艦隊は12月13日、現在のリオ・デ・ジャネイロ地方に到着する。リオ・デ・ジャネイロ地方でマゼランたちは裸族トゥピナンパ族と出会う。ピガフェッタによるとトゥピナンパ族は人食いの習慣を持ち、男女ともに裸で恥部も隠さず、全身に着色し、オウムの羽で作った腰飾りを付け、男は下唇に穴を開けそこに顔飾りの石をはめ込んでいる。トゥピナンパ族は16世紀ではカニバリ(人食い族)と呼ばれる人々であったが、マゼランたちはトゥピナンパ族とは極めて友好的な交友を持ったようで、住民が多く参加するミサも2回行い(トゥピナンパ族がキリスト教を信仰したわけではない)、トゥピナンパ族はマゼランたちが長期滞在できるようにマゼランたちのための家も建てている。ピガフェッタはトゥピナンパ族女性のあるエピソードを書き残している。 ある日のことである。私が旗艦にいるとき一人の美しい若い女性がやってきた。あてずっぽうな目的で来たらしかったが、副長の部屋を眺めやると、指よりも長い1本の釘が落ちているのに気が付いた、女はひどくうれしそうにして上手にそれを拾い、陰唇のあいだにそれを差し込み、深くお辞儀をしてすぐ帰っていった。総司令官も私もこの情景を眺めていた。 — 増田(1993)、p.117
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