出土した木板の性格と1912年の発掘の顛末
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/01/24 14:02 UTC 版)
「塚廻古墳」の記事における「出土した木板の性格と1912年の発掘の顛末」の解説
森浩一は上記の長さ3メートルの中央のくぼんだ木板とは割竹形木棺の底部である可能性が高いが、丸木船が木棺のように使用されていた可能性もあり、どちらか断定できないとしている。この1912年の発掘は土地所有者の主催で行なわれたものであり、必ずしも学術的な調査ではなく、坪井正五郎は呼ばれて立ち会い意見を述べた程度というのが真相で、発掘の報告文も発掘を取材した新聞記者が「考古学雑誌」に寄稿したものがあるだけだという。またこの発掘はわずか2日間で終了するあわただしいものであり、終了直後に、指定もれの陪塚が発掘されているという情報を受けた宮内省諸陵寮(現在の宮内庁書陵部)より中止命令が電報で届けられたという。坪井と同じ東京帝大の国史助教授の黒板勝美からは、塚廻古墳の報告文が載せられた考古学雑誌の同号に今度の塚廻古墳の発掘を厳しく批判し、古墳の発掘を制限する法令を施行すべきとの論文を寄せているという。さらに、出土遺物の帰属をめぐり、政府と発掘した地主側とでしばらく裁判が続けられたという。
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