内訌・滅亡期
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367年5月、慕容恪は病死し、実権がその叔父の慕容評に移ったことから、前燕の崩壊が始まる。この慕容評は収賄政治を行って前燕を腐敗させた。前燕の急速な弱体化を見た東晋の桓温は3度目の北伐を行なって前燕に侵入した。この桓温の侵攻に弱体化した前燕軍は敗戦し続け、慕容暐は龍城への還都を検討するまでになる。だが慕容暐の叔父の慕容垂が桓温と対峙し、さらに前秦に領土割譲を条件に援軍を求める事で対抗する。慕容垂は前秦軍到着の前に桓温を撃破し、慕容垂が新たな実力者として前燕では台頭し始めるが、それを憎んだ慕容評により慕容垂は排除を図られたため、やむなく前秦に亡命した。慕容垂の出奔で前燕を支える大黒柱はいなくなり、逆に前秦は皇帝の苻堅や宰相の王猛らにより攻勢に出て、まずは洛陽が王猛により奪われた。 370年9月、前秦は6万の軍を動かして前燕に攻勢をかけ、前燕も40万の軍を慕容評に与えて対戦させた。だが晋陽(現在の山西省太原市)や上党(現在の山西省長治市)など主だった都市が次々と攻められ、11月には苻堅自ら率いる10万の侵攻を受けて首都の鄴は陥落し、慕容暐は捕縛されて前秦の首都長安に連行され、前燕は滅亡した。
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