内訌と滅亡期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 06:11 UTC 版)
李雄の死後、皇位は兄の子、すなわち甥の李班が継いだが、これを李雄の四男の李期が認めずに内紛となり、334年8月に李期は李班を殺害して自ら即位した。しかし338年4月には李特の甥の李寿の反乱を受けて李期が殺されるなど、短期間で皇帝が入れ替わる事態となった。そしてこの李寿はひどい暴君で、即位すると国号を漢と改め、李雄の子を全て殺戮した。さらに後趙の石虎と連携して急進的すぎる国政改革を行ない、かえって民衆への賦役を増大させ、反対する側近は排除し、内乱も発生した。こうして成漢は急速に衰退した。 343年8月に李寿は死去し、長男の李勢が跡を継いだ。しかし既に成漢は末期状態で、荊州から乱入してきた少数民族の反乱もあり衰退がさらに顕著になった。347年2月、東晋の安西将軍桓温の攻撃を受けて李勢は敗北して捕縛され、成漢は滅亡した。李勢は建康に送られて帰義侯とされ、361年に死去した。
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