内戦とフィアナ・フォイル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 06:57 UTC 版)
「コンスタンツ・マルキエビッチ」の記事における「内戦とフィアナ・フォイル」の解説
英愛条約の賛否をめぐって、マルキエビッチはエイモン・デ・ヴァレラらと共に反対に回り、1922年1月に閣外へと去った。アイルランド内戦ではアイルランド共和主義(英語版)とアイルランド共和国軍側に立ちダブリンのモランズ・ホテル (Moran's Hotel) 守備戦を支援。内戦終結後に米国へと旅立つ。1922年のアイルランド総選挙で選ばれなかったものの、翌1923年総選挙では南ダブリン選挙区で選ばれ政界に復帰。 しかし他のアイルランド共和主義の議員共々、任期中通じて議会を欠席し更に再三投獄される。投獄された刑務所で彼女は92人の女性囚人と共にハンガーストライキを行い、一ヶ月以内に釈放される。1926年にフィアナ・フォイルが結党されると、彼女も加わりスカラ座 (La Scala Theatre) での結党大会で議長を務めた。1927年6月総選挙ではフィアナ・フォイル党公認候補としてドイル・エアランに戻ると公約、見事第5ドイルに再選された。だが、そのわずか5週間後の7月15日に59歳で死去し、結局ドイル・エアランの議席に就くことはなかった。死因は、結核 (彼女がダブリンの救貧院で働いたときにかかった) または虫垂炎との合併症と推定されている。臨終の際にあたっては彼女の離れていた夫および娘および最愛の継息子が見守り、ダブリンのグラスネヴィン・セメタリーに葬られた。フィアナ・フォイルの指導者、エイモン・デ・ヴァレラは弔辞を述べた。 南ダブリン選挙区の彼女の議席のための補欠選挙は1927年8月24日に実施され、クマン・ナ・ゲールの候補者、トーマス・ヘネシー(英語版)が勝利した。 「 彼女が豊富で持っていた1つの事 — 肉体的な勇気; それを彼女は衣服と同じように着た One thing she had in abundance — physical courage; with that she was clothed as with a garment 」 —ショーン・オケイシー
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