六角氏と明応の政変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 04:29 UTC 版)
延徳2年(1490年)、土岐氏に庇護(ひご)されていた足利義材(後の義稙)が10代将軍に就任し、六角高頼は赦免された。しかし、六角氏の内衆が寺社本所領の返還を拒絶したため、翌延徳3年(1491年)4月に再び幕府軍の遠征が開始された(延徳の乱)。高頼は再び甲賀に逃れたが敗北を重ね伊勢でも北畠氏の軍勢に迎え撃たれて逃亡した 。足利義材は近江守護の座を六角政堯の遺児である六角虎千代に与え、明応元年(1492年)12月に京に凱旋したが、直後の明応2年(1493年)4月、河内遠征中に管領の細川政元が足利義高(後の義澄)を擁立し権力を失った(明応の政変)。 11代将軍となった足利義高は六角虎千代を廃し、山内就綱(佐々木小三郎)を近江守護に任じた。高頼はこの機に乗じて蜂起し、斎藤妙純らの支援を受けて山内就綱を京都に追い返し、明応4年(1495年)、足利義高からの懐柔を受け近江守護に任じられた。高頼は、細川政元と共に美濃で起こった船田合戦に介入し、翌明応5年(1496年)に美濃斎藤氏、京極氏、朝倉氏による侵攻を受けたが、高頼は伊勢の軍勢や蒲生氏の支援を受けてこれを撃退し、斎藤妙純を討ち取った。 京都の細川政元らと敵対していた足利義材は、明応7年(1498年)9月に越中から越前に移り、更に河内で兵を挙げた畠山尚順に呼応して明応8年(1499年)11月に近江まで南下したが、高頼は坂本で足利義材の軍を奇襲し敗走させた。永正5年(1508年)に大内義興の上洛により10代将軍足利義材が復権すると、高頼は11代将軍足利義高を庇護した。しかし永正8年(1511年)、船岡山合戦で足利義澄を擁立していた細川澄元が敗北すると足利義材に恭順した。その後、高頼は伊庭貞隆との対立に勝利し、六角氏の戦国大名化を成し遂げた。 ただし通説の久頼の没年と高頼の生年が離れすぎて世代が合わないため、久頼-高頼間に1世代あるとして佐々木哲は古文書に見える六角政勝をその間に置くべきとする説もある。
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