六角氏と三好氏の攻防
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 04:29 UTC 版)
戦国時代中頃には六角定頼(高頼の次男)が登場した。定頼は第12代将軍足利義晴(義高の子)や第13代将軍足利義輝をたびたび庇護し、天文法華の乱の鎮圧にも関与した。近江蒲生郡観音寺城を本拠として近江一帯に一大勢力を築き上げたのみならず伊賀国や伊勢国の一部(北勢四十八家が支配する北伊勢地域)までにも影響力を及ぼしたとされ、六角氏の最盛期を創出し、阿波国から畿内に進出した三好氏と度々争った。 しかし定頼の死後、後を継いだ六角義賢の代においても、畿内の覇権を握った三好長慶と度々争ったが、永禄3年(1560年)に野良田の戦いで浅井長政と戦って敗れるなど六角氏の勢力は陰りを見せ始める。
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