定頼の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/08 21:44 UTC 版)
正平年間の末(1370年)には、定頼は無量壽院(無量寿院)を設けて隠居していたとされ、法名を契阿と称した。すでに世子の前頼に家督を譲っていたと云うが、応安5年(1372年)8月25日に死去し、これにあわせて家臣3~6名が殉死して御供した。定頼は、球磨郡内の統一は果たせなかったが、状勢が激しく変わるなかでも一貫して武家政権を支持し、幕府に忠実であった。戦乱に乗じて肥後国や特に日向で勢力を拡大した。なお、正平7年/文和元年(1352年)、足利尊氏は定頼を大隅守に任じた。正平12年/延文2年(1357年)には同じく遠江守を叙任されている。
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