六角氏との共闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 14:40 UTC 版)
明応6年(1497年)には美濃国で起きた先の船田合戦で高頼が石丸利光を支援した報復を受け、貞秀ら蒲生家は六角方として斎藤妙純(利国)・京極高清らと交戦している。 文亀2年(1502年)に起こった高頼と伊庭貞隆との間の抗争でも高頼を支持。当初は高頼側が優勢だったものの伊庭氏が細川政元が派遣した赤沢朝経の支援を得て反撃に出ると、逆に高頼側は馬淵城・青地城・永原城らを次々と失陥し窮地に立たされる。すると高頼は観音寺城を捨て、貞秀の居城である音羽城に入城し、音羽城は伊庭貞隆と赤沢朝経に包囲・攻撃されたが持ちこたえ、高頼が折を見て政元との講和を締結させると伊庭方も戦いを継続できず兵を退いた。
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