公開授業と聚楽式の広がり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 05:09 UTC 版)
「廣田虎之助」の記事における「公開授業と聚楽式の広がり」の解説
廣田は実験結果を論文にまとめ、京都府教育会研究部に提出した。教育会では1906年(明治39年)9月に廣田の論文を検証するために、聚楽小学校で公開授業と検討会を行った。1,2年生96人を一つの教室に集めて授業し、参観者は100人にのぼったという。授業後の研究会では一部の研究部委員から反対意見が出たが、廣田はさらに研究を加えて、自説が間違っていないことを論文にして提出した。それらは10月と11月に別の学校で行われた研究会で発表された。これらの成果は『京都府教育会雑誌』明治40年(1907年)1月号に公表された。そこには「聚楽式算数教授法は適切な改良法である」と認められていた。廣田の研究は急速に広がり、1908年[明治41年)-1909年(明治42年)、代表的な著書である 聚楽式算術教授法 (上・下) を出版した。京都府教育会の研究本部は「廣田の教授法の意義を深く学び、そのうえで算術教授法研究をいっそう発展させること」を他の教員に促した。
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