公共科学の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 20:46 UTC 版)
「サイエンスコミュニケーション」の記事における「公共科学の誕生」の解説
ルネサンスと啓蒙時代を経て一般向けの言説の中に科学研究が現れ始めたが、19世紀になるまで公衆が科学に出資したり科学に親しむことは一般的ではなかった。それ以前の科学研究は、私的な後援者に依存しており、王立協会のような排他的な集団の間で行われるのがほとんどだった。19世紀に中産階級が台頭した結果、漸進的な社会の変化により公共科学(英語版)が成立した。ベルトコンベアや蒸気機関車のような19世紀の科学的発明が人々の生活様式を改善したことを受けて、大学その他の公的機関は大々的に科学的発明に資金を提供して科学研究を振興させようとし始めた。科学の成果は社会にとって有益であったため、科学的な知識の探求は科学という一つの職業となった。当時存在していた科学に関する公共の議論を行う場としては、米国科学アカデミーや英国科学振興協会(British Association for the Advancement of Science、BAAS)のような学術団体がまず挙げられる。BAASの創立者の一人であるディヴィッド・ブリュースターは、「科学の1本の支流を追求する人が、ほかの分野の探究者と理解しあえるように」、また「科学を志す学生が自らの仕事をどこから始めればよいかわかるように」、研究者がそれぞれの発見を円滑に伝えるための定期刊行物が必要だと信じていた。科学が職業化されて公共圏へも導入されたことで、科学はより広い受け手に伝達されるようになり、それへの関心も高まった。
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