光武帝の争覇戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 00:48 UTC 版)
王莽が殺された後に更始帝軍は関中に入って長安を制圧した。天下が更始帝に治められると見た赤眉軍はこれに服属することを約束した。しかし長安に入った更始帝は一気に堕落して、財宝をかき集めて日夜宴会を開き、政治は全く省みることがなかった。赤眉軍は、この有様を見て独自路線を歩むことに決めた。 その頃の劉秀は、兄の劉縯を殺害した更始帝の側近たちに危険視され、遠征に出すことを拒否されていたが、適当な将軍がいないと河北の制圧を命じられて、外へ出る。河北には王郎、後には銅馬軍と言った勢力が現れたが、劉秀は現地の豪族と手を結び、苦戦しながらも24年に王郎を滅ぼし、銅馬軍を降し、楽浪郡を除く河北を統一した(楽浪郡はこの年に王調が自立していた)。翌25年、劉秀は皇帝位について元号を建武とし、洛陽を首都とした。配下に銅馬軍が多かったために他の勢力からは銅馬帝と呼ばれた(以後劉秀を劉秀の諡号である光武帝と呼ぶ)。 25年、赤眉軍は西進して関中を攻めた。その途中、赤眉軍は自軍にいた漢の宗族から籤引きで劉盆子を選び皇帝とした。一方、弛緩し内紛を起こした更始帝軍は敵しえず、更始帝は投降した後で殺された。しかし長安に入った赤眉軍は更始帝軍をなぞるように略奪を行い、略奪する物が無くなると東の故郷へと帰り始めた。27年、光武帝の部下である鄧禹は大敗するものの、馮異は鄧禹に引きずられての大敗の後、散った兵を集めて盛り返して大勝し、更に光武帝は赤眉軍の帰り道を自ら塞いで戦わずしてこれを降伏させた。 完全に群を抜いた勢力となった光武帝は27年に梁の劉永・30年に舒の李憲と楽浪の王調・32年に琅邪の張歩といった群雄勢力を制圧し、36年に蜀の地で「成家」を建国していた公孫述を滅ぼして全国を統一した。
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