光武帝の皇后となる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 23:15 UTC 版)
真定国の名族の生まれである。父の郭昌は、巨大な田宅財産を異母弟に譲り、国人から義とされた。郭昌は真定恭王劉普の娘を娶り(以後、劉普の娘は郭主と号す)、娘の聖通と子の況が生まれた。郭昌は早くに死去し、姉弟は郭主によって養育された。 更始2年(24年)春、劉秀は河北の王郎討伐の途中に真定に立ち寄り、この時、郭聖通を娶った。これは、劉秀が郭聖通の叔父の劉楊(劉揚)との関係を強化しようと目論んだことも動機である。劉秀が光武帝として即位すると、郭聖通は貴人として立てられた。 建武元年(25年)、郭聖通は皇子の劉彊を生んだ。また、当時16歳であった弟の郭況も黄門侍郎として登用されている。翌建武2年(26年)、郭聖通は皇后に、劉彊が皇太子に、それぞれ立てられた。なお同年には、真定王となっていた劉楊が謀反を企んだとして、光武帝の命を受けた前将軍耿純により誅殺されている。
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