光氏の知行について
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石川氏転封の寛永16年(1639年)に、旗本の小川正長(藤左衛門)と小川氏行(九左衛門)が、幕府直轄地日田、玖珠、速見郡内約4万1,800石の代官として着任した。慶安元年(1648年)に氏行が西下の途中で事故に遭って死亡。明暦元年(1655年)に正長も死亡し、氏行の子息の行広(又左衛門)と、正長の正久(藤左衛門)が日田代官を務めている。しかし寛文5年(1665年)に支配所で農民訴訟(一揆のこと)が起きたことで、両名とも家禄没収となった。 この日田代官の小川氏と小川光氏との関係は判然としないが、小川光氏の日田入領は、代官としての赴任であるという説が定説となっている。 一方で、中野等(九州大学院教授)は『先哲史料館研究紀要 第3号』中で慶長6年9月7日(グレゴリオ暦1601年10月2日)付けの「豊後国内御知行方目録」を示して、光氏は代官ではなく大名であった、すなわち日田領は小川氏の知行地であった可能性を指摘している。
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